2013年05月

庭に出て、野菜や花たちを見るのは時差ぼけや旅疲れを癒してくれる何よりのものだった。
 
ゴーヤは昨年の種を蒔いたが、芽が出て来ない。ミニトマトは昨年は前年植えた種がこぼれて自然に生えてきたので、それで今年もと思ってしばらく待ってみたが全く生えてこない。
 
5月9日、カナダに行く直前、ゴーヤとミニトマトを植える予定場所に二株ずつ植えた。植えた日と翌日に雨が降る予想だったし、家を空けるのは1週間の予定だったので決行した。2株なのはまだ芽が出ると期待があったからだ。
 
約2週間家を空けて帰ってみると、ゴーヤの種から小さな双葉が出ていた。
ミニトマトは全く出ていなかったので、もう2株ほど買い足した。
 
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下は今日の画像。5月31日。前回から8日間、経っている。ゴーヤは以前買った2株と芽が出て植え替えたものが仲良く並んでいる。早く大きくなって緑のカーテンを作っておくれ。
 
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4月28日にカナダから帰ってすぐにミニミニ菜園を耕し、5月4日、野菜の苗を買いに行き、植えた。朝早く目が覚めて、明るくなるのを待って庭に出て作業をした。
 
5月10日には再びカナダに行く予定にしていたので、その間に、と思ったのだ。
 
ピーマン、オクラ、きゅうりを4株ずつ。
 
 
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2度目のカナダから帰って、23日に写したもの。植えて19日後。ピーマンも、きゅうりも日当たりが悪いせいか、ピーマンの葉は虫に食われ、きゅうりも伸びてはいたが、何だか元気がない。オクラは全く成長していない。今までオクラは毎年植えるのだが失敗している。
 
 
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今日、写したもの。植えて27日後。ピーマンはやっぱり日当たりが悪いからね。でも小さなつぼみをつけている。きゅうりは黄色い花をついけている。大きくなったエルダーフラワーの花が終わり、剪定して少し日当たりがよくなった。ひとり生えしたシソが元気。オクラくんはだんだん元気がなくなっていく。今日あたり、油粕をやってみよう。
 
 
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         イメージ 3 黄色く見えるのがカモミール 。手前が  ニゲラの花。  向こうに見える白い花はヤロウホワイト。                 
 
 
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ニゲラの花がほぼ終わったので抜いたら、カモミールもいっしょに抜けてしまった。
ニゲラもカモミールも昨年の種がこぼれて自然に生えてきたもの。
 
花を摘んでハーブティーを作ってみることにした。カモミールはそのままでもとてもいい香りがする。エッセンシャルオイルよりはるかにいい香り。
 
まず、フレッシュをそのまま淹れてみた。少し苦味があるがとてもいい香りがしてまさにカモミールティーだ。濃い香りと味。
 
次にさっと洗って乾かしてドライにした。ハーブティーにして飲んだ。苦味が抜けて飲みやすい。香りはそのまま。
 
今日はブレンドにしてみた。
 
とっておきの自家製のドライハーブがある。どくだみとレモンバーム。それに桑の葉。これは買った。アールグレイの紅茶。
 
フレッシュハーブはミント2種、レモングラス、レモンバーム。
 
やっぱりカモミールの香りが一番しておいしい。
 
 
 

 
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1株だけ植えたワイルドベリーに毎日4~5粒の小さな実をつけてくれる。
小さいけど濃厚な味がする。他の果物といっしょにヨーグルトのトッピングにする。
毎日の朝の楽しみ。
 
カナダから帰って9日目の朝。今日はやっと朝6時まで眠れた。やっと時差ボケが治まってきたかな。
 
毎日朝3時頃には目が覚めて、4時頃には寝ておれなくて起き上がってきていた。
5時頃には朝ごはんを食べていた。
 
テレビをつけるとNHKの”おはよう日本”とかをやっている。こんなに早くからテレビをやっていたのだとはじめて知る。
 
早起きのお蔭で、朝、庭仕事ができる。草抜き、水やりなど。6時から2時間やってもまだ8時だ。
 
すると10頃にはお腹が空いてくる。健康だな~。10時にお昼ご飯となる。3時頃におやつをたっぷり食べて、6時にには普通に夕ご飯を夫と食べる。1日4食で体重が確実に2キロ増えてしまった。
 
時差ぼけも治まってきたし、そろそろ元の体重に戻さなければね。
 
 

 
あ~、忙しかった、というよりも、めまぐるしいカナダ行きだった。
 
前回の旅、4月19日~4月28日、の後すぐに、叔母を日本に連れて帰る準備を始め、12日後の5月10日に再びカナダに飛んだ。叔母のカナダでの入院が長引いていて、これ以上長引くと叔母は脚が弱り、認知障害が進み日本に連れて帰れなくと判断し、なるだけ早く迎えにいくことにした。
 
準備の12日間に、フライトの手配、叔母には3席を用意した、成田のホテルの予約、叔母をすぐに病院から病院に直行するための、病院への入院の取り付け、老人ホームの予約と忙しかった。
 
カナダの病院から叔母のインフォーメーションを日本の病院にファックスで送ってもらい、日本で叔母の代わりに私たちが家族受診を受けた。ファックスは5月3日には日本に着いていたのだが、あいにく日本では連休中で病院と連絡できたのは7日になった。8日に受診して10日には飛んだのでぎりぎりだった。日本の病院の先生にもいろいろと無理なことをお願いした。入院して、その後、老人ホームに入居できるまで病院に置いてもらうこと、そして叔母を受け入れてもらうべくファックスを送っていただくようにお願いした。
 
それともう一つ、途中で分かったのだが、叔母の二重国籍の問題。これはとてもややこしい。でも夫が外務省との電話のやりとり、法務局にと走り回ってくれて、何とかなりそうだとなったのは行く直前。何も知らない私たちに皆さんは親切に応対してくださった。夫の、叔母を日本で看取りたいという熱意が伝わったのか、人道上の配慮をくださりいろいろと教えてくださった。もちろん合法的に。
 
こうして一応安心して10日に日本を発った。14日には叔母を連れて日本に帰る予定だった。滞在期間は短いが、今回はとにかく叔母を日本に連れて帰ることだけにした。
 
ところが、結論から言うと、叔母は日本に帰れなくなった。今回は日本に帰らなかった。
 
着いた前日に、何故か、大腸の内視鏡検査を受けていた。無造作にベッド脇の小テーブルの上に写真と説明が書いてあるA4の紙が置いてあった。叔母はもちろん、認知していない。
 
ナースから13日月曜日に何らかのオペを受けるらしいと聞いた。よく分からないまま、叔母を日本に連れて帰れるように荷物をまとめながら、一方では、何とかそのオペらしいものを日本で受けれないかと日本の病院に連絡をとったりした。日本の病院では内科の先生なので自分の一存では決めれないとの返事。この時も時差の壁を痛感する。14日には何とか連れて帰りたいと思いながら13日を待つことにした。
 
空港から家に向かう道。カナダは車も家も道も何もかも大きいが、空も雲も大きい。
 
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2週間前は芽だけちょっとのぞかせていたスイセンがみごとに咲いて私たちを出迎えてくれた。
 
着いた日11日は、Oファミリーの息子さん、Cさんが空港まで迎えに来てくれていた。家まで高速を走り約40分。家に着くとOファミリーのAさんの奥さんYさんがお弁当を作って用意してくださっていた。おにぎりに、鮭の塩焼き、卵焼き、ほうれん草のごまあえ。とてもおいしかった。叔母にも食べさせてやりたいと、午後病院に行った時に少し持っていった。病院の食事ははサンドイッチなど西洋風なので、叔母はとても喜んだ。
 
叔母は元気そうだ。どこも痛いところも痒いところもないという。ただ、テーブルの上の腸の内視鏡の写真が気になった。
 
夜は再びCが来てくれて叔母のこれからのファイナンシャルのことについて相談してくれた。月曜日には銀行に叔母を連れていって、ジョイントアカウントを結ぶという。
 
翌日、11日、叔母の外出許可をもらって、家に連れて帰り、衣類などを選んでもらった。いっしょに持って帰るもの、後から船便で送ってもらうものなど。叔母はすぐに疲れてしまい、何にも要らないという。
 
後から、A一家が来てくれた。奥さんのYさん、6歳と4歳の子どもたち。叔母もいっしょにお茶を飲んで、もっていったお団子、豆菓子をほおばりながら、嬉しそうだった。
 
いよいよ13日。朝8時半には病院に行き、ドクターに話を聞こうと、待ち構えた。ドクターは忙しいのでいつ現れるかナースには分からないという。Cと奥さんのNさんもいっしょに来てくれた。
 
10時頃、叔母は救急車に乗せられて、別の病院に検査に行った。月曜のオペはどうやらこの心臓の検査だったのか。
 
お昼ころ叔母は帰ってきたが、ラインをかってに抜いてしまい、検査ができなかったといって帰ってきた。点滴の針を抜くのはこれで2度目だ。何かと思って引っ張って抜いたらしい。
 
午後2時頃、ドクターが来て、やっと話ができた。立ち話だ。Nさんが通訳をしてくれた。まず、「今の段階で、飛行機の旅は無理だ」ということ。時々下痢をして食欲もあまりないという。これは前から分かっていたこと。「何故、日本に連れて帰るという今、なのだ?!」とNさんが詰め寄ってくれた。それは叔母が今まで検査を拒否していたというのだ。でも、何故今?と疑問は残る。叔母は自分が内視鏡検査をしたことすら分かっていない。大腸に癌らしきものがあるので、手術をするという。明日、ラインの確保。明後日心臓の検査。手術はその後になるという。木曜日か金曜日、緊急手術が入れば来週になる可能性もあるとか。
 
何とか手術を見届けたい。帰国の延長はするが、夫も薬を2週間分しかもってきていない。
 
ドクターとの話は終わり、気が抜けた。すぐ気を取り直し、手術前に叔母を銀行に連れていかなければならない。叔母を車に乗せ、Cの運転で銀行に行った。
叔母もこの時はしっかりとCとジョインとアカウントになるサインをしてくれた。これで叔母が仮に亡くなった場合も凍結されることはなく、なりよりも、自分で銀行に行けなくなった叔母の代わりにCがファイナンシャルのことを引き受けてくれることができるようになった。
 
私たちは叔母の手術が今週中に終わることを祈りながら、帰国の日を、1週間延ばし、20日に発つことにした。フライトの変更は夜、Cがしてくれた。翌日は病院、老人ホームなどのキャンセルをした。
 
毎日、夫の運転で病院に行きながら、叔母の手術を待った。日本では考えられないが手術の日が当日の5分前でなければ分からないというのだ。これも信じられないことだが治療費は一切いらない。
 
15日、Oファミリーのお母さん、Sさんが夕食を呼んでくださった。Sさんは結婚してカナダにいかれたので普通に日本語が話せる。切干大根の煮物、自分で栽培したというもやしで作ったナムル、大豆から作ったというおからのの煮物、春雨の酢の物、鮭、お味噌汁等の日本食でもてなしてくださった。
 
Oさんはかつて、叔母がウィニペグにいた頃、家族ぐるみで仲良くしていた方。子どものいない叔母と叔父はCとAを自分のこどもようにかわいがったという。ご主人さんが亡くなられ、去年、CとAの子供さんたちがいるカルガリーに越してこられた方だ。叔母の家からすぐのところだ。Oさんファミリーには本当にお世話になった。Cの奥さんNさん、Aの奥さんYさんはお二人とも大人になってカナダに行き結婚した人だ。CとAは2世なので日本語は苦手そうだが奥さんたちは日本語が母国語なので通訳してもらって、本当に助かった。Oさん一家には本当によくしてもらって身寄りのない叔母がこうしておれるのもOさん一家の助けがあったからこそだ。私たちにも家族以上によくしてもらっている。
 
朝、近所の二世のSさんが散歩に誘ってくださった。Oさんもいっしょ。BATTELIONPARK。第一次世界大戦の時、ここに大きな部隊があったらしい。
 
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翌朝は私たちで散歩に行った。ちょっと高台にあるので、ロッキーの山々がよく見える。白く見えるのは、遠くからは部隊のナンバー153とか数字に見える。
 
また別の日、2世のSさんが大きなナーサリーに連れていってくださった。向こうの端が見えないくらい広い。パンジーからコスモスまでほぼ1年中の花の苗が売られている。種類、量、共に多い。長い冬が終わり春を待っている人たちがたくさん花や木の苗を買って帰っていた。
 
 
帰る日の前日まで、手術はなかった。もうないだろうとあきらめて、Oさんのうちで夕飯をごちそうになっていたら、夜、7時半頃、これから手術が始まるという電話があった。日曜日の夜7時半。手術は始まり、3時間半におよんだ。後でドクターのの話が聞けた。大腸をほとんど摘出したが、他に転移がなかったので、2~3週間したら退院できるだろうとのこと。
 
いっしょにいてくれたCとYさんと下のカフェテリアでこれからのことを話した。3週間後私たちが再び叔母を迎えに行くかもしれないし、Cが日本に連れてきてくれるということも言ってくれた。奥さんのNさんの里帰りも兼ねてそれも可能だという。
 
翌日、叔母の顔を見て、帰国の途に着いた。叔母は自分が手術を受けたこともあまりよく分かっていなかった。いいことなのか、どうか、、、。
 
私は帰りの飛行機のなかでいままでの疲れが一気に出てきた。3月中旬からの娘の引越しでシンガポールに行き、2度のカナダ。でもまだ終わってはいない。これからまたカナダに行くかもしれないし、7月には娘のお産でシンガポールにいくことが決まっている。
 
 
 

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